植田概要

そもそもこれなに? プロ野球シミュレーションゲーム「Baseball Life」のプレーヤー・植田による個人サイトです。
植田が育成した選手(みんな鳥)をまとめています。
植田鳥の設定 普段は普通の鳥ですが、野球をするときは鳥人になります。引退したらほどなくして死にます。
だいたいみんな投手です。
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連絡先 ここまでどうぞ。

植田年表

β1年度 植田さゆりが福岡文科大学付属香椎高校を卒業し、マリーンズに入団。
1年目からリリーフとして活躍し、新人王、ベストナイン、MVPに輝く。
β2年度 植田さゆりが抑え投手に本格転向する。
β3年度 植田さゆりがスローカーブを習得。
植田さゆりがセーブ王に輝く。
β4年度  
β5年度 植田さゆりが田所浩治とのトレードでライオンズに移籍。
小柳祐次郎が大里東小学校を卒業し南中学校に進学。
植田さゆりがサークルチェンジを習得。
β6年度  
β7年度 植田さゆりのルーキーイヤーから続いてきた連続50試合登板記録がストップする。
β8年度 植田さゆりが小日向文世と恋仲になる。
β9年度 小柳祐次郎が南中学校を卒業し、久能高校に進学。
植田さゆりがパ・リーグ通算最多セーブ記録保持者になる。
β10年度 久能高校が21世紀枠で選抜甲子園大会に出場。
小柳祐次郎は2番サードで先発出場し1安打を放つ。
β11年度 植田さゆりがエルヴィン.京極とのトレードでマリーンズに復帰。
植田さゆりが初の故障離脱。
β12年度 植田さゆりがグローブを新調。「確乎不動」の4文字を刻む。
小柳祐次郎が久能高校を卒業し、国生大学に進学。
植田しんじが青森県弘前市植田町で誕生。
β13年度 植田シンジが青森県弘前市植田町で誕生。
β14年度 植田さゆりの衰えが始まる。
β15年度 植田さゆりに戦力外通告。そのまま現役を引退。
β16年度 小柳祐次郎が国生大学を卒業し、イーグルスに入団。
β17年度 小柳祐次郎が三塁レギュラーの座を半分掴む。
β18年度 小柳祐次郎がカット打法を完成させる。
β19年度 小柳祐次郎が登録名を小柳※氏郎に変更(※は示に右)。
植田さゆりが営んでいた焼き鳥屋が火事になり、焼け跡から一羽の鳥が死体で発見される。
なお、これ以降植田さゆりは消息を絶っている。
β20年度 小柳祐次郎が野球教室に講師として参加。金萬を28個平らげる。
小柳祐次郎が左投手打ちを習得する。
小柳祐次郎が初の規定到達。イーグルスの三塁レギュラーに定着する。
β21年度 小柳祐次郎がキャリアハイとなる成績を残す。
β22年度  
β23年度 小柳祐次郎が柳田将利と結婚。改姓し柳田祐次郎になる。
β24年度 柳田祐次郎が二塁コンバート。
β25年度 柳田祐次郎が遊撃コンバート。年俸1億円に到達。
β26年度 柳田祐次郎が自身初の全試合出場を果たす。この年1000本安打を記録。
β27年度 柳田祐次郎が守備の際に右手を骨折する。
β28年度 植田しんじが弘北青山高校に進学。
β29年度 柳田祐次郎が選手兼コーチとなる。衰えが始まる。
植田シンジが弘北青山高校に進学。
植田しんじが甲子園大会に出場。滅多打ちを食らう。
β30年度 柳田祐次郎がシーズン開幕前に今季限りの退団および米球界挑戦を表明。
植田しんじが甲子園大会に出場。打ち込まれる。
β31年度 植田しんじが弘北青山高校を卒業し、ドラゴンズに入団。
柳田祐次郎が米独立リーグのチームに入団。
β32年度 植田シンジが弘北青山高校を卒業し、宮城野学園大学に進学。
柳田祐次郎が現役引退。通訳としてイーグルスに復帰。
β33年度  
β34年度  
β35年度  
β36年度 植田シンジが宮城野学園大学を卒業し、不来方運輸に就職。
β37年度 植田シンジが補強選手として都市対抗野球に出場。
140キロ台後半のストレートで奪三振ショーを披露し、スカウトの目に留まる。
植田しんじが現役引退。
β38年度 植田シンジが二軍戦で2試合連続頭部死球を与える。